『医療の倫理』 |
昨日は所用で鳥取市へ。ご覧の通り、雪が多いです。車は無謀なので、列車で向かいました。 喫茶店で高校時代の友人にばったり会ってみたり、思わぬ収穫のある帰省でした。 さて、道中の車内で星野先生の著書を読み返しました。1991年刊(bk1)。 基本的に著者は、患者の「自主」性を重視する英米のバイオエシックスの本流を取り入れながら、そのままではわが国では受け入れ難い部分もあるので、家族主義的色彩の強い日本風にアレンジして採り入れようというスタンスです。 "autonomy"の訳語に「自律」ではなく「自主」を選んでいる辺りが、特徴ですか。(p.85) 本書は20年近く前のものですが、私がなぜ今読み直したかと言えば、星野先生が献体法の成立に活動をされていたからで、その辺りの話は第7章に出てきます(p.135以下)。特に興味深いのは、「なぜ日本では遺族の承諾がこうも重きをおかれるのか?」と題した部分(p.150以下)。 アメリカは1966年のUniform Anatomical Actで、これまで近親者が遺体の処分権を持つとしていた従来の慣習法を改めて、自分の遺体の処分法を生前に決定することができるようになった。中には、遺族の反対があっても本人の遺志を優先する州まである。一方、日本では献体登録の際に、近親者・親族の同意書名等が必要である。 こうした献体を嫌がる日本の風潮について、「献体の意思表示を生前に明らかにされた個人の遺志を黙殺することが、故人に対する冒瀆や侮辱であるという視点に立てず、個人の人権の侵害とも人権蹂躙とも考えようとしない日本の社会に問題があるのではあるまいか。」(p.152)とかなり辛辣な批判が載っていたりします。 こうした死後においても自己決定を優先する考え方は他にも出てきていて、例えば、臓器移植の問題については、家族主義的な日本の状況からして、導入段階ではコントラクティング・アウト方式をとりつつ、ドナーカードなどが普及した時点でコントラクティング・インに制度変更する提案がされています(p.180)。 20年が経過して、現実の臓器移植法とその改正は筆者のオススメと逆の展開となっているわけでして…、結果として日本では、”死後の”遺体に対する「自主」とか「自律」とか「自己決定」は根付かなかったのかもしれません。 |
by vla_marie
| 2011-01-28 21:55
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