『ニューロエシックス』雑感 |
昨日は、学内清掃だとかで、あっちのキャンパスはなんだか忙しそうでした。 しかし、3時からやるってのはどういうことなのか?わざわざ暑い時間帯にやる必要は無いはずなのに…とても医学部のやることとは思えませぬが。ぬぅ。 途中まで読んでいて投げていた「現代思想」6月号、特集「ニューロエシックス」を読了。 このサブ機はメモリ不足で日本語の変換も大変なんで、長文はキツいです。 あきらかに、いっぱいいっぱいです(汗。 PETやfMRIを用いた近似の脳研究が、1).ロボトミーの反省を総括し、生かしていないこと、2).被験者保護の観点から、それら技術は"低"侵襲ではあっても、"非侵襲"ではないこと、3).社会的な"侵襲"性への考察・配慮に欠けることを論じた橳島論文(p.156~)は、こうした"流行もの"が陥りがちな側面をフォローする纏まったものでした。 ただ、それより思うところがあったのは的射場論文(p.134)と空閑論文(p.187)で、脳科学の問題には政治性が内包されていることや、エンハンスメントが自己決定を装いつつもその実外部規程的であることなどが論じられていた…と解釈しました。 「なりたい自分」になったつもりが、社会的に有益とされる支配的な価値観に基づいて(ex.高身長、頭脳明晰…etc.)しか「なりたいように」なっていないのではないか?などという問題を考えてみよう。 本号を読んで個人的に思うのは、こうした脳科学と倫理に関して、前提段階の「何を見たいのか?」が問われるべきではないか、ということ。 というのも、fMRIにしても脳科学者たちが「見たいもの」を見えるように、データ処理を既にかませているわけです。機器による可視化にあたって"ノイズ"が除去される過程では、既に、当該情報がノイズであるか否かは「何を見たいか?」によって振るいにかけられているのでは? また、機器が映し出すのは特定の反応に過ぎず(ex.糖代謝、脳波…etc)、それは解釈を経て感覚や運動に結びつけられること。ここでは観察者の意図(ex.研究目的?)が完全に排除され得ないだろうこと。 さらに、こうした諸研究が社会的に認知されることは、研究費調達の都合からも望ましく、得てして大衆的に受けるようなデザインが為されやすいのではないか(「見せたいものを」見せる)という疑念もあります。 つまり、可視化されているのは基本的には「見たいもの」ではないかと。見たいと感じる主体の脳が、見たいように客体の脳を読むという…ややこしい話は置くとして。 少し話はずれますが、こうしたことを考えていると、アナ・メンディエッタの1973年の作品「血を眺める人々」を思い出します。これは、血の付いた骨、血液などを街路に放置するパフォーマンス・アートであり、そこでの人々の反応は示唆的でした。 人々は流血という暴力・事故への痕跡を気には留める。ただし、彼らはそうしたことに決して関わろうとしなかったのです。こうして彼女は、他者の暴力への無関心を暴きだそうとしました。そして、その試みは成功しているのでは? 人は都合の良いところだけを見て、都合の良いように解釈したがるのかもしれません。それが現に「見えていても」! であるならば、不可視の領域を見ようとするときに、どうして見たくないものを積極的に見ようとすることがあるでしょうか? 脳死判定にも同じようなことが言えるかも? さらには、「見たいもの」を見るのみならず、創り上げているという可能性も0(ゼロ)なのでしょうか? こう考えてくると、研究のデザイン段階での精査の必要性や、結果の解釈や外延の設定には慎重を要するような気がするんですが…。 でも、バラエティ的には面白いネタだし、結構誇張して伝えられることが多いですな。 |
by vla_marie
| 2008-07-26 15:34
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