『病者は語れず』 |
元医師の医療ジャーナリスト永井明のルポ作品(bk1)をサクッと読みました。『医龍』の原案者と言った方が、通じるのだろうか?単行本として文藝春秋から1995年に出ていたものです。 執筆は裁判の流れに沿って行なわれたようです。いかに元医師とはいえ取材は困難であった模様で(それだけ大学病院側のガードが固い)あまり突っ込んだ話は出てきません(残念)。 東海大「安楽死」殺人事件という副題について、「殺人」の語にドキッとする方もいらっしゃるのかもしれませんが、兎角美化されがちな「安楽死」の語に比べて、価値中立的なのかもしれません。 また、「殺人」の語が入って来るのは本書の特徴とも関係が少なくないと思われます。 というのも、筆者はこの東海大の事件で、患者自身の意思表示が無かったことをつとに問題にしているからです。意思−患者関のコミュニケーション不足がこの事件では指摘されていますが、そのような中で患者個人の意思がおざなりにされた、そのことが問題なのだと。 この点は、実際裁判でも考慮されていまして、妥当な主張でしょう。→安楽死の意思表示は代行できない。 とはいえ、実際には本人の意思をその時点で伺い知ることは(リビング・ウィルでも無ければ)不可能でしょう。ここで、延命治療の停止と(積極的)安楽死を区分する立場に立てば、前者には代行ないし代諾もあり得るとも論じられますが…そこで行われるのが、意思の代行なのか、利益の代行なのか(それも遺族の〜ではなく本人のものなのか)は峻別困難。というような議論がよく見られますね。 興味深いのは、実際に注射を行った医師についての記述。 著者は、公判に立ち会った結果、その彼はもともと「命が大事」という生命至上主義であるようだと見ています(p.120以下)。同時に、権威主義的でもあったと見ていますが。ほほぅ。 仮にそうだとして、「生命の尊厳」(SOL)と「生命の質」(QOL)とを(P.シンガー流に)二分論的に捉えるならば、彼が安楽死を主導することはまずないでしょう。まぁ、そんなに簡単な問題ではないのですが…。人間はどっちかをすぱっと採れる合理的な主体では無いですよ。 それから、安楽死は何故医師の手で行われなければならないのか(そんなことやりたくないのに…)という疑問も示されていまして(p.198)、これも本当は議論になりそうなものなのに実際には論争が少なく、近時の延命治療の停止の話でも医師がやることになってますね。 あと、著者は「被告医師は、(コミュニケーション能力という)適性を欠くのだから、医師を止めた方が良い」とまで言い切ってます。これは著者自身医師を止めた人物だからこそ言えるのでしょうねぇ。 全体としては、薄くてさっと読めるのですが、完全に一般向けの内容です。これ1冊で事件がわかるモノではありません。 所用で、明日か明後日に税務署に行かねばならないことに(急。 明日、空き時間に晴れてくれるとイイナ。 |
by vla_marie
| 2008-06-11 23:52
| 本
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