『脳死臓器移植は正しいか』+iPhone3G発表 |
大おじが近所に入院とのことで、見舞いに…行けないです。どうやらICUに入っているようで、これでは面会はかなわないでしょう(困。 池田清彦氏の脳死臓器移植本、2006年刊(bk1)。『臓器移植我、せずされず』(小学館、2000年)の加筆・修正版とのことです。臓器移植法改正案が実際に論じられた時期にあり大幅に手が入っているようですが、前著を所持していないので詳細は不明。 「私が本書で主張したいのは、マクロに見れば脳死移植のドナーになることは愚行であり、ドナーにならないことこそが善行なのだということである。」(p.135) 筆者はもちろん、脳死臓器移植反対派。著者自身はリバタリアンを自称しています。ただし、臓器に対する所有権は否定します(p.79以下)。 理由としては色々挙げられていますが、一言で言えば、合理主義の立場から、臓器移植は馬鹿げていると論じているものと解されます。 ざっくり斬ってみますね。 需給関係が不均衡かつ決して満たされない脳死臓器移植は、市場ではそもそも成り立ちえない。しかも、提供を”無償”としておきながら、移植術にも術後管理にもコーディネートにも金はかかるし、そこに税金が突っ込まれている。移植関連業界を潤すことになっても、こんなことは馬鹿げているので公的な制度としてやるべきではない。やるとしても愚行権の行使として行なうべきであって、旗振ってやることじゃない。つまり、経済的に合理性が無い。 死の判定は、生物学的に見れば(著者は構造主義生物学の論者)不可能。細胞全部の死を死の定義とするのは無理。しかし、(相続等の問題もあるので)社会的な死を擬制する必要はある。とはいえ、死の定義は科学のみで決まるものでなく、一般的・社会的な感覚からかけ離れたものであっては支持されない。三徴候説はまだしも、脳死はそうした感覚からはかけ離れていて、死の定義として不適切である。つまり、社会的にも合理性が無い。 こうした脳死臓器移植は、臓器移植で助かるというささやかな欲望をかき立てこそすれ、経済システムとして受給が満たされることがない以上、結局関係者を利するのみで馬鹿げている(脳死者不足から脳死判定・臓器摘出が易化されるハメに→多くの人にはメリット無し)。だから、ドナーになるのは善行どころではなく、社会的には愚行と評価されるはずだ。 だいたい、こんな話だったかなと。 著者がアナルコなリバタリアンなのかそうでないのか存じませんが(たぶん国歌の存在は認める…のだと思う)、たとえ「愚行」とはいえ一般的にリバタリアンならば、以下のような帰結が導かれるかと。つまり、公的制度として脳死臓器移植をやるのはだめだけど、私人で勝手にやってるものを禁止するなと。しかし、(前述したように)著者は人体の所有権を否定するリバタリアンということで、私人でも(脳死移植に限っては)好ましいと思わないという結論になっておるようです。かといって、著者は、別に心身二元論に反対している訳ではないのです。人体には所有権は及ばず、”管理権”があるのみという立場なので。というのも、リバタリアン故に権力(好コントロール)に身体という自然を管理される機会を与えることを好まない考えが根底にあるそうです(第9章)。 文庫ということもあって平易な文体、辛口で斬りまくっておりまして…結構乱暴な印象も受けますが、この平明さがかえって受けるのかと。巻末に年表(2006年まで)が付されているのは、入門書としては良いかと。 夕刻から歯科へ。1本治療して、残り7本…まだ7本。顎関節症の悪化が確認されましたが、さぁてこいつにはいつ手をつけようか。 iPhoneも新型が出て日本国内にも出回る様子(ケータイwatch)。暫く様子見かな。 |
by vla_marie
| 2008-06-10 21:48
| 本
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