医療崩壊×患者学(追記 |
何の組み合わせかと思われるかもしれませんが、これは現代思想の2月号(bk1)と3月号(bk1)の特集のテーマだったりします。纏めてポチット購入したものが届きました。 まず「医療崩壊」を特集した2月号を読了。 この号のメインディッシュは、脳死慎重論(反対論と言っても良いような…)の小松美彦先生と日本尊厳死協会の荒川迪生副理事との討議です。両者が正反対の立場であるからには、どこかに交錯点がありそうなものなのですが、あまり噛み合っていない印象を受けました。戦闘領域が広いほど、実際の戦闘が散発的になるような感じです…ガン○ム的な星間戦争? 基本的な対談の主軸は尊厳死の法制化の是非なのだと思いますが、それに関して先立つ尊厳死や終末期の定義についての意見交換(噛み合ってないけど…)もかなり盛んにされていました。(最終更新:12 avril 2008) 法制化反対への小松先生の主張は、以下のように要約できるでしょうか? 1).「尊厳死」とは死をのぞむ”動機”が尊厳志向にあるという点で定義されるのであって、方法としては(所謂)積極的安楽死を包含する可能性がある。2).尊厳死協会は死の自己決定をアメリカの議論から借用しているが、自己決定権は普遍的・絶対的な原理ではない。クローン人間作成や臓器移植の例のように、本来個々の事項が社会的に認められるかどうかということがあるはずだ。「もともと尊厳死も社会的に認められるか否かを問うていたにもかかわらず、自己決定があればよいというのは、個人に限定して認めるようでいて実は尊厳死を社会的に認めるというものすごい離れ業をやっている(p.76)」。3).かつてナチスが安楽死法制化を試みた際の要件「不治の病」、「死に至ることが確実な病にある」、「当人の明確な要請」に基づくと言う3要件は、尊厳死協会の「不治」、「末期」、「リビング・ウィルによる自己決定権」という条件と重なる。健康増進法以降、健康が国家の責任から国民の責任に転換され、医療・福祉の削減が行われる現況では、傷病をもったまま自己責任・自己負担で生きるか尊厳死かという自己決定を強いられかねない。 対する荒川副理事は。 1).「尊厳死」とは延命治療を拒否した自然な死を望むこと。それを自己決定していること。それを医療者側が尊重してくれることである。2).終末期における自己決定権の確立と、それに関する医療者や社会の支援のあり方を明確にするために法制化は必要である。法律にするために公開すれば皆で討論でき策定過程も明確で皆が参照できる。3).確かにアメリカ型自己決定を前提にしているが、それはカレン事件など先駆的なものがあったため。尊厳死協会はフーコー的権力組織に取り込まれ作動するほど影響力はない。 最終的に、法律でバッサリ斬り捨てるより個々の事例に悩み混乱がある方が健全とする小松氏と、あくまで法制化を推進する荒川先生とはかなり食い違いがありますが、幅広い議論の必要性があるという広いレヴェルではかろうじて意見が共通するようです。いやしかし、”法制化を前提としない”議論に尊厳死協会側が乗ってくるかどうかは微妙だと思いますが…。 ほか…興味深かったものは。 中島孝/川口有美子(聞き手)の「QOLと緩和ケアの奪還」も、後半部分で尊厳死の問題に触れていました(p.167)。事前指示書は充分な情報を得ていないのでインフォームド・コンセントにはならない、にも拘らず診療報酬体系に入れると言う議論がある…ということで反対論が出ていましたよ。 がしかし、これはいつの間にやら議論がそんなに加熱したようにも思えない中、ひっそり診療報酬体系の中に組み込まれたようですね(鬱。 他に気になったのは、美馬論文。 医療崩壊を巡る言説が、「崩壊」を主張する側からも否定する側からも安全を鍵に為されていることを手がかりに、ここで完全な安全なるユートピア社会の不存在と現実としてのリスク社会を描きだした上で、これまでの医療を「崩壊」させるか否かという二者択一の外にあるオルタナティブな可能性を示唆するものですが、少ない紙面ながらキレの良さが秀逸でした。 あと、巻末の田中論文。 本論考は、日本の生命倫理学には価値観に基づくテクノロジー制御体性の構築が欠けると鋭く指弾。それを認めた上で、まずは具体的事例との対応の中で、制度から倫理的原則を抽出するような思想=実証分析のハイブリッドな生命倫理学のメソッドと立ち位置を確立すべきという提案してくれています。 いや、確かに、日本の生命倫理学会がこれという指針や声明を打ち出すことができない現状はある訳でして、共通のメソッドやベースが無いという指摘はなかなか手厳しいです。 追記:3月号読み終わりました。 メインの山海嘉之×松原洋子両先生の「サイボーグ患者宣言」は討議というより、山海先生の研究成果を松原先生が聞き出している感じでしたが、先端技術もここまで来たか…と思わされました。 気になった論考は、以下。 第1に、ケネス・アローの厚生経済学の再検討を通じて、医療が経済のモデルで”解を与えることができない”こと、その意味を論じた小泉義之先生の「病苦のエコノミー」(p.68)。ただ、経済学の素養が無い私には話がまるまる分かる訳ではないのですが。 それから第2に、的射場論文。米国型バイオエシックスの創世記に影響を及ぼしたヨナスとラムジーの論考が、「人格性と物件性の古典的な二項対立のの枠組みで、患者・被験者の人格の尊厳を救い出すことを試みた(p.212)」→バイオエシックスが患者の自律を中心として医療行為を規制する体系となって行ったとして…、本論考は、そこでの人格概念とパーソン論、生きる権利との関係をロックを手がかりに解きほぐした面白いものでした。 たぶん要約すると…。 アメリカの生命倫理の伝統=共通善に対する個人の人格の優越性に基礎をおく。 歴史的にはまず、人体実験に関して、ICは患者が人格主体でありモノ扱いされないために要件化された。こうした試みは、人格性と物件性の二項対立の枠組みで為されて来た。そこでは、患者・被験者の人格の尊厳の救済が目的であった。 一方、中絶論争以降登場したパーソン論は、人格の有る無しによって生きる権利のある生/権利なき生を区分するものであった。 本稿はここで、「生命に対する権利が人格の概念と接合され…「単に生物学的な人間の生と人格的な人間の生」とが分割されること、人格という概念を通じて人間でありながらも生きる権利の無い生が現出していること(p.215)」を問題にしている。 パーソン論はロックの概念を基盤にする。 ロックの人格の概念は、1).いかなる存在論的な基盤にも依拠しない、2).人格と人間はカテゴリー上区別される、3).意識が人格性の必須条件である。 ロックの概念では「人格的」という冠によって、生物学的な生と区別される特有の生命は生じない。が、パーソン論は「人格的」生命がモノ的生命の権利主体であるとする二元論に基づく。 また、ロックは人格を「行為とその功績とを自らに帰属させるもの」として規定している(人格=行為の帰属先)。また、ロックらが依拠していたローマ法の伝統では人格はモノに対する権利主体として法的空間に擬制されたもの(=法人格)であった。故に、自由人であろうと奴隷であろうと人格は有する。 ロックが奴隷を(人格であるとしても)権利主体とみなさなかったのは、自由人と異なり奴隷は"他者の意志に服している"ことにある。しかし権利主体でないと言っても、生命に対する権利を失っている訳ではない。 フィルマーとロックの統治原理の論争の中で、自然権論者ロックは親が子に対してもつ権力の正当化を一種のパターナリズムに求めているが、それは制限的なもので子供の生命にまで及ばないとしている(自然権の根拠は神だが)。奴隷が生命に対する権利を失い、主人が生殺与奪権をもつのは、奴隷関係が「相手の生命を奪うことを権利として許されてる」戦争状態であるからである。「人が自己自身の人格を有しているか否かということと、彼が生命に対する権利を有しているか否かということは、ロックにとって本質的に別問題(p.221)」。 神無き近代に至り、人間が自己自身のうちに生命に対する権利を基礎付けようとする(そして矛盾を抱える)。 ここで、「人間が生命に対する権利を主張するということは、自身のうちに権利無き生を作り出し、それを人間であることから排除すること(p.221)」となるが、さらにパーソン論は、人格と生きる権利のある生を結びつけたことによって、人間が人間である根拠まで放棄する(?ここ読み方おかしいかも…)。 また、ケアと市場との関係をスパッと切れ味良く論じた堀田論文(p.192)も、問題を分かり易くモデル化していて、頭の整理に良さそうでした。 ちょっと、気になるニュース。 クローン食品について。アメリカの出荷自粛は初代のみ、子孫は含まれていないと4日に報道されていました(読売)。 まぁ、危険なのはクローン食品だけではないですが…。 |
by vla_marie
| 2008-04-03 22:15
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