『生と死の倫理』 |
先月末に日本医師会が『終末期医療に関するガイドライン』を示した他、2007年9月には厚労省が類似のガイドラインのたたき台についてパブリックコメントを募集(厚労省)、救急医学会も2007年11月に『救急医療における終末期医療に関する提言』を公表するなど、終末期医療の在り方、特に「治療(?)停止」に関して、法制化以前に各種の動きが見られます。また、(遅々として進みませんが)臓器移植法の改正についても、熱心な活動が続けられていることが報じられています。 こうした動きを反映してか、ピーター・シンガーの著作(bk1)が日経でも紹介されていました(NB Online)。原著1994年、邦訳1998年(阪大の樫先生訳)と割と昔の本ですが…「生かさなくて良い命がある」という彼の主張は、(今なお)刺激的だと紹介しています。しかし、この本も邦訳書の流通が最近怪しくなってきているんですが…。 そんなわけで私も手元にあった本を読み返してみた訳です。 彼の著作を読むときは、キーワードとして1).功利主義、2).活動家、3).無神論を念頭に置いておくと理解が楽かなと思います。 シンガーは、それが命である限り是が非でも尊ぶべきというような、西欧社会の倫理として流布している「生命の神聖性」が、今日では妥当しないと言います。代わりに彼が提案するのは、「生命の質」という新しい倫理基準です。これは端的に言えば、本人に益の無い無駄な治療を続けることは倫理的義務ではないとして、その中止を許容する立場です。ここでの益の有る無しの判定には、功利計算が働くという構造になっています(ex.糖尿病児と無脳症児の治療停止に差を認めるのは何故か(p.144))。 「生命の質」の妥当する具体的なトピックとしては、障害胎児の中絶ならびに嬰児刹、遷延性植物状態や脳死者の取扱い、安楽死問題などが挙げられています。 数々のトピックの中でも非常に過激なのは、「脳死」に関するトピックを扱った部分(p.36〜)です。彼は「脳死」は作られた死の基準であることを示し(ex.なぜ他の動物には「脳死」がないのか)、本当は「脳死者は生きているが、生命の質の観点からすれば、その生きている人の臓器の摘出が許容される状態にあるのだ」という旨の主張をします(ex.通常の脳死判定をしたからと言って、脳の完全に不可逆的昏睡状態を我々は完全に診てはいない)。彼は、社会には生者から臓器を抜くことへの抵抗感もあり、こうした患者を死んだものとして扱う方が都合が良かったのだろう…と見ています。 また、以上の彼の倫理的考慮に与る中核的な対象は、(既に他の著作でも触れられていますが)所謂パーソン論で言う「人格」主体となります。彼の「人格」定義は、ロックの定義「理性と反省能力とをもち、時と所を異にしても、自分を自分として、同じ思考するものとみなすことのできる思考する知的存在」;p.204)に則ったものです。こうしたシンガーの視点からは、胎児や無脳症児はパーソンではないとみなされる(人格と同じ利害関心を持たない)ばかりでなく、ほ乳類の一部はパーソンである→動物の権利論という主張が出て来る訳です。 この辺りは、意図した結論を導きだすために、記述的に「人格」概念を定義している感もありますが…。またシンガーの著作の中でも特徴的な動物の権利論に関する『動物の権利』、『動物の解放』は、今入手困難だったりしますな。 既に、かような過激なシンガーの主張に関しては、そのQOL(?)や人格概念の定義を巡って論考があれこれ見受けられます。反論も多い訳ですが、でも「生かすに値しない命のがある」ことを説くシンガー流功利主義モデルは一見ドライに見えるのですが、一方で回復の見込みのない患者を生かし続ける義務論の立場もかなり厳しいですよ。 私見ですが、結局終末期のあり方についてその条件や手続を議論することは、突き詰めればある意味でシンガーの言うような意味での「生命の質」の内部でその「量り方」を議論することに陥っている(=おそらく、意識的にソフィスティケートされた表現で議論を行っている)のではないのかなぁ。。。 ちなみに、本書の議論全体についてはシンガー自身第9章(p232〜)以下で纏めています。親切。巻末の訳者あとがきも整理が上手く、この手の問題に関心がある方には参考になるのでは? ところで、この本目次に凄い間違いが…(こりゃ訳者の責任ではなくて、出版社の方の問題でしょう)。手持ちの3刷でも直ってないのですが…今は既に修正済み? |
by vla_marie
| 2008-03-25 09:18
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