『生命倫理の再生に向けて』 |
微妙に最近過眠気味です。と言うか、いつも眠いです(死。 鬱なのか、鼻炎で良く眠れないせいなのか…集中力が著しく落ちて危ないので、暫く運転は控えないと。 今日メモっておく本は、実際執筆者の1人にも「え!あの本買ったの?」と驚かれるぐらいなので、なかなかマニアックな本なのでしょう。九州を中心に活動している「西日本生命倫理研究会」の研究成果を纏めたもの(bk1)。2004年刊。 「「現代生命倫理学の直面していると思われる根本課題」について私なりに簡単に感想を述べる…(中略)このような根本課題として二つのものがあげられるのではないかと思う。第一は医療主体(医師、看護士、医療チームなど)の側にまだ根強く残っている「デカルト主義的二元論」の思想的克服ないし相対化という課題であり、第二は医療客体の側の「自己中心的欲望」の克服という課題である。(p.11)」 冒頭の「まえがき」で三島先生は本研究会の感想をこう述べられておられますが、そうとはいえ全員が全員ここまで問題意識を一にしている訳ではないのでしょう。 まえがきで触れられている、「デカルト主義的二元論」の問題については臨床倫理系の議論が、「自己中心的欲望」論については、人体改造に関わる粟屋論文などが該当するとのことです。たしかに、本書は理論系の話と臨床倫理の話題(第7章以下)が両方収録されていることが、特徴でしょう。ただ、粟屋論文は、比較的穏当な論者が多い中で、テーマの設定も含めてかなり目立ちます(汗。しかも、上述の「二元論」問題を克服するつもりは無いというのが…なんとも。 結構バラエティに富んでいるので、本書の芯は若干見えにくいです。 酒匂先生が「あとがき」で纏められているように、加茂論文(第1論文)で示された「個人の自己決定」と「問題の公共性」という二側面の関わりが生命倫理学にも妥当する、との考えが(以降の論文にも)通底しているという感じで大きく括れば…なんとか纏まりがあるのかなという感がします。ちなみに、各論文の個々の要旨も「あとがき」に簡潔に纏められています。そうすると、先端的な医療を巡る生命倫理問題も、突き詰めれば<公-私>についての超古典的な問題関心と繋がるでしょうね(アリストテレスやプラトンに遡る?)。 こうした視点は、法学系の生命倫理学者に顕著だと思うのです(酒匂先生も専門は法哲学だし)。医療資源の配分的正義の問題を考えれば、国家論や政策論が登場しない訳が無いのですから。ここでは、社会と個人との関係の捉え方によって、国によって議論の枠組みや原理・原則が相対化されて然りな気がしますが…アメリカの議論が結構そのまま持ち込まれることの多い日本って…(謎。 |
by vla_marie
| 2008-02-18 23:58
| 本
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