『それでもヒトは人体を改変する』 |
「胚選択テクノロジーに対する批判者の一部は、従順な兵士の軍隊を繁殖させる全体主義的な政府という悪夢的な絵柄を描きだしてきたが、自由な個人の選択の集合的な力学は、いかなる独裁者よりもはるかに効率的に私たちを導いていくだろう。(pp.165-166)」 グレゴリー・ストックの邦訳書を先週古書店で発見→購入しました(bk1)。叩き売り状態でした。 原書は2002年刊行。 ストックはリベラル優生主義とかエンハンスメント論の肯定論者で、論敵はジェレミー・リフキンやフランシス・フクヤマ、専門は公衆衛生学(ほんとか?)と帯にはあります。 本書は生命倫理学専門家向けに書かれた本では無いようです。 人間改造(遺伝子の挿入や機械の装着…etc.)について、議論の前提となる現状の情報を提供し→それについての筆者の見通しを述べるという構成を採っていまして、ある種の倫理原則(倫理モデル)があってそこから演繹的に結論を導き出すようなことはやっていません。少なくとも倫理学の教科書みたいな堅苦しさは無いです。 むしろ、臨床や実験研究の現場を、一般人に伝えるところがメインかと。そのため、具体的な事例がページ数の大半を占めています。 詳細過ぎて、少し読んでいてだるくなる部分もあります。ただ、流石にこれだけの量があれば、彼の現状認識から導かれる予想の中には、将来当たるものも出てくるような気がします。 で、結局何が筆者の主張かと言えば、以下のように纏められるかと。 1).合理的な人間はリスクの大きなことはやらないから、将来一般化する技術は(国家の強制等が無ければ)自然と安全なものに限られるハズ。 2).規制を掛けたとしても、その魅力が抗しがたいものであるとき(ex.若返り技術)、人体改造は為されるだろう。 3).人間の改造によって「超人類」が誕生する可能性があり、そこには技術上の問題や差別の問題等があるが、これらは個別に検討・克服可能であろう。 →エンハンスメントはじめ先端技術の利用は止められないんだし、倫理的には(事前規制の必要性が無い訳じゃないけどp.273)個々個別に生じた問題に対処すれば良いしそうするしかないのでは。 「私たちの相違点を解消するなどという途方も無い希望を抱かずに、相違点を明らかにするというもっと穏当な望みをもって、先端的な生殖テクノロジーに賛成または反対の論拠を探っていくのが賢明だろう。(p.175)」 大まかに言えば(他の多くのエライ先生方の評される通り)楽観論者と言っても差し支えないんでしょうね。 あと、どうやらストックは(広義の)エンハンスメントに胚選別や胎児スクリーニングによる選択的中絶も入れて考えているようですね。彼が想定する中心的な遺伝学的人間改造とは、人工遺伝子の追加・挿入ではありますが。 「しかし、内なる人間を脅かしているのは、非人間的なるものの侵略でもなければ、私たちの人間としての限界を超越することでもない。私たち自身をつくりなおすのは、私たちの人間性の究極的な発言と認識なのである。(中略)私たちは避けることのできない途方もない冒険を始めたばかりなのである。(pp.266-267)」 先日飲み会の席で、「ファイボーグ(機能的=ファンクショナル・サイボーグ)」の語の創案者がこのストックだと教授から聴いていたんですが、その語はp.39あたりに登場しますね。「ファイボーグ」とは人と機械とが機能的な統合状態にあることを示し、具体的には補聴器やウェアラブル・コンピューターなどが念頭にある。 ここでは、キスレンコの1995年論文を引き合いに出しているので、初出はもっと前なのかな?分かる方は教えていただきたいです。 |
by vla_marie
| 2008-01-24 23:27
| 本
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