『法の再構築III 科学技術の発展と法』 |
城山英明・西川洋一 編『法の再構築III 科学技術の発展と法』(東京大学出版会、2007)を入手して読みました(bk1)。 既に研究会等で発表済みの論考が含まれており、知っている話も多かったのですが、書誌に纏まると便利です(もうちょっと安いと、もっと助かるのだけれど…)。 個人的な関心から面白かったのは、西川洋一センセの「科学技術の発展と西洋法の歴史的伝統」という論考。以下要約。 > 西洋法の「人格=persona」概念は、「権利能力」と対置される。 そもそもpersona概念はキリスト教からの影響を受けており、そこでは肉体的な人間とは切り離された1つの在り方→倫理的存在としての人間が観念されていた。 倫理的存在たる人間は、「自由」の存在が前提されており、それゆえ人間は他の動物と区別されて「尊厳」を有するとされた。 カントはこれを近代法に継受し、「人間は、内的な自由を与えられている存在、すなわち人格である限りにおいて、義務、すなわち法的義務、もしくは徳の義務を背負うことができる存在である」とした(cf.責任論)。 ところが、集団生活では公権的国家による個人の自由を統制することが必要になった。 自由主義者たちはこれを批判して来たが、現代社会にあっては高度な科学技術に市民が依存して生活するようになった。 ここで、 ドイツでは国家に対する人権の防禦権的側面(国家に対して私人の自由な領域に介入するんじゃないよ!)だけでなく、請求権的側面(人権を享受する為に国家は〜してくれよ)が兼ねてから主張されていたところ、公的領域の規制は増大した。 そのため、当初の「自由」を前提とした「人格」像ではなくて、国家の後見によって「自由」を支えられて「人格」になるという事態になっている。 これは権利の個別性と社会集団の連帯とをどう調製するかという古典的な問いに収斂する。 ええ、よく整理されていて、分かり易かったです。 他には、ブリッタ・ヴァン・ベアーズ氏の「生まれない権利?」では、ロングフル・ライフ訴訟を扱っており、障害を持った個人が生まれない権利を裁判で争うとき、それは優生学的仮定を伴う(生きるに値するか/否か)が、それは生命の平等性を損なうのでは、などと解説してありました。 それから、日英の動物実験規制を比較した神里論文では、法的には実験主体-対象を「人間-動物」と対置した上で動物の「保護」を考えなければならないはずなのに、日本では動物=愛玩物とする思想があるので法設計が不整合と。 これは生命倫理学会でも報告があったものです。 また、山口論文では薬害エイズ事件(T大ルート)の訴訟を題材に、「刑罰の賦課を正当化する条件が満たされない限り、事後的に悲惨な事態がもたらされたとしても、処罰は不当」とする前提を元に、過失犯論としてこの問題を考察しておられました。 市民感情も分からんでも無いのですが、法学的にはこのケースで過失責任を問うことに問題山積な様子が伺えます。 他にも電子商取引に関する論文等も興味深いのですが、生命倫理の領域とはちと外れてきますので、ここでの紹介は無しで…。 研究会等での報告を前提としている為か、全体的に平易に書かれているので門外漢でも問題なく読めると思います。それだけにやや概説的なものが多いのですが、詳しく勉強したい方は文献リストをあたれってことでしょう。 |
by vla_marie
| 2007-09-12 11:34
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