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くわぁんりんの日記
by vla_marie
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林真理『操作される生命 科学的言説の政治学』

b0035832_004452.jpg 昨日は疲れていたのか、夕食後に死んだように眠ってしまいました。
 夕食には見よう見まねでタコライスを作ってみましたが、これは挽き肉の脂の処理を考えないと駄目ですね。店で食べるのよりも若干オイリーになってしまいましたよ。


 昨日・今日で読んだのが、林真理の著作(bk1)。著者は科学史・科学論が専門。
 2002年刊行ということですが、著者が問題視している現代社会に存在する「思考枠組」は、今なおあると思います。



 本書が問題にしているのは、テクノロジーが社会的合意を経て受容されて行くその「過程」です。
 というのも、テクノロジーが問題化されるということ自体が、その時点で当該テクノロジーに対して存在する問題を如何に解決して、それを実現可能とするかという問題構となっていること。そして、そこでは捨てられてしまった他の選択肢が考慮されず、テクノロジーが背負う価値観や目的まで遡って議論されることは稀であるということ。
 例えば、生殖補助医療の利用(クローン、AID、代理母、凍結精子…)に際しての倫理問題につき。挙児を得ること自体が目的とみなされがちですが、何故挙児を得たいのかという目的まで遡ることは稀ではないでしょうか?
 生殖補助医療が開始された初期の段階では「家」の存続という、幾分ジェンダー・バイアスを含んだ要請に基づいた挙児を得る「目的」があったと言われますが、現代の挙児を得る目的は変容しているのでは?そして、挙児を得ることと技術の利用との目的が必ずしも必然的な結びつきに欠けるケースもあるのでは?
 しかし、このレヴェルに立ち返って議論を再構成することは、確かに稀な気がします。

 この事態を顕在化し、意識的に取り扱おうとするのが目標であるようです。

 うーむ。
 科学的問題・言説は、先行する選択(これは価値判断を含む意識的/非意識的な思考様式でなされる)の下で既にベクトルと構成が与えられている。こういうあらかじめある程度結論が見えている状況、その中で議論をしているに過ぎんのよ。ってことか。
 確かに、最近まで「病気は治療するもの」だとか「不妊は治療するもの!」というものは半ば無意識的に私達の思考様式・価値判断→行動を様式化していたきらいはありますね。


 本書は、脳死移植問題、補助生殖技術、ヒト・クローンの3点を考察対象とした上で、まとめを行う構成になっています。

 例えば、ある結論にとって都合の良い特定の「事実」が、他の思考枠組みでは重要である「事実」に優越する形で、問題の「価値」決定に用いられることが、脳死問題を扱った箇所では記述されていました。
 脳死問題において医学的な「死」の事実が重視され、遺族や患者の心情という実在する「事実」は捨象され、「価値」決定に組み入られない。
 反面、脳死判定が誤り得るだとか、ラザロ徴候を持ち出す議論も、既に思考枠組み的には囚われているという見方もできる。

 筆者は、この「事実」の審級を巡る争いでは解決が困難だと脳死移植推進派が認識したので、次に「価値」についての社会的合意によって脳死移植の問題にケリをつけようとしたのだと、解説しています。
 また、この考えに従えば、「技術があるのに使って何が悪い!」という主張は、既にあるベクトルにのっかってそれを肯定するものであり、問題を遡及するそもそも論でありえない…と思われます。
 ここで得られた結果が、脳死を採るかどうかは自己決定で選べる、という解釈であった。 それが現行法に盛り込まれている、という分析でした。
 問題は、「社会的合意」というものの不確実性・不確定性、また、そうした合意形成の場が国家主導で(ベクトルを持って)行われたこと…などにあるという指摘がなされていました。
 具体的には、脳死の解釈を巡って紛糾したあげくに、それ程強く主張された訳ではない「脳死の解釈を個人の決定に委ねる」という選択肢が現行法に盛り込まれている訳で…それって、「社会的合意」が”得られた”って言うのかいな?という疑問が呈されています。
 また、この過程で採用されたのが「自己決定」ルールであったがために、未成年者の臓器提供が問題になったという指摘もあります。


 補助生殖医療についても、同様に「治療」から「生殖権」へと議論のパラダイムがシフトしていっていることが分析されます。

 要するに、何とかして技術利用することに道を作るためにシナリオが書かれ(ここではハナから全面禁止は想定されていない)、コンセンサスがまとまらなければ問題を次々にすり替えて、あたかも「社会的合意」が形成されたかのような体裁を整えて技術利用を可能にする…そんな構図があるんですよ、ということですか。
 もちろん分析だけではなくて、最後に筆者は問題に対する処方箋も書いておられます。
 科学私的な視点から、自然/文化の二元論的構成が限界にあることを指摘した274頁以下の記述がなかなか良くできていて、参考になりました。
 要するに、従前の思考様式では主体と客体は二元的に扱われたがゆえに、主体たる人のために客体たる自然は改変されたされた。ここでも、自然によって主体は影響を受ける。しかし、科学技術が主体の内なる自然(遺伝子等)に向かうときには、それは主体による主体の改変でもある…自然/文化(ここでの文化は、人間を中心とした価値の体系・社会を想定すれば近いか…)を1つのシステム系と捉える必要性があるのでは?という主張でか。
 こうした主張自体は古くからあって、そう珍しいものではないのだけれど、林氏の説明は比較的整理されているような気がします。


 こうした生命倫理をめぐる政治権力と個人の生との関係については、フーコーの「生ー権力」論を下地にして、柿本、櫻井、米本…など多くの論者が書いておりまして、一種のブームなんですよね。
 基本路線としては、僕もこうしたグループの問題意識と共有するところがあるので、そこそこ読み易かったです。ただ、厳密な議論をしたいがためなのか、たくさん留保を付けた上で議論が展開されますので、人によっては鬱陶しいと思う方も居るかも?

 近時、ラディカルな臓器移植法改正案が国会に提出されておりますが、こうした議論の枠組み・思考様式自体への懐疑のある方は、一度読まれてみても良いかも。です。
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by vla_marie | 2007-07-04 00:01 |
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