人体と人格を巡る議論についての裏技試案 |
日本医学哲学・倫理学会なるものを聴きにいってきました。 色々と得るものがありました。学術的にも、大会運営のやり方についても。。。 写真は阪大の正門です。阪大の工学部に友達が行っていたのですが、「パルテノン神殿みたい。」と評していたのはこれの事かな?左側隅に人影が見えると思いますが、無駄に馬鹿でかいです。存在感に圧倒されます。 タイトルの件ですが、昨日先生とタクシーの中で話をした中で「人体に人格を認めるという議論は荒唐無稽だ。」との主張に対して、「(日本の)著作権の概念では、人格権をそこに読み込む主張が一般的だと思うので、そこから類推するに人体に人格的なものを盛り込む事も十分に考えられ得る。」と反論したのが始まりです。 もう誰かが論文を書いているのかもしれませんが、自分なりに帰りの電車で(お馬鹿な頭で)思考実験していました。 結論として、著作権の考え方を援用すれば、①人体に人格的要素を盛り込む事は「理論上」可能である、故に、②そのことによって人体の処分を自己決定の下に置く事が可能となる、しかしながら、③人体の処分を規制する規範足り得ないだろう、という予測が立ちそうです。 ①については、人体自身をクリエーションするのが自分自身であるとか言う理屈付けもできますし(我々の細胞は常日頃から生まれ変わっている)、他にもどうにかこうにか理屈をこじつけられそうです。切り離された人体は自律的「人格」主体では無いですが、人格的要素を載っける事は無理ではないような気がします。 ②については、著作物の利用等について著作者のコントロールが及ぶ事と、切り離された人体資料の利用に関して資料の由来者の同意を得る事が原則必要だという主張(例えば、検査目的で採取した組織を、研究利用する場合に再度同意が必要となるどうか…などという問題に絡んで)とをアナロジーで繋げる事ができるかもしれません。 このことによって自己情報コントロール権などの類の自己決定権を補強する事ができるかもしれませんし、何より「人間の尊厳」などの内容が論争的で不明確な概念をバイパスして自己情報のコントロールを理由づける事が可能となるかもしれません。 ③については、②とも関連するのですが、「人間の尊厳」のような議論をスキップしてしまう事で、自己身体の処分(臓器売買など)についての規制については別の概念を当てなければならなくなってしまう(ex.公序良俗の問題?)という問題が生じることが考えられます。 というのも、人体に人格的要素を盛り込もうとする議論は通常「人間の尊厳」の概念等を用いつつ「人格が存する故に売買の対象とならない。」などの主張をするからです。著作物と似た議論を持ち込めば、「著作物だって人格権を内包するのに処分は許されているんだから人体だってそうだろ?」って主張も可能になりそうです。つまり、「たとえ「人体」に「人格」性が認められようとも、そこからすなわち人体を処分してはならないとは必ずしも言えない。」という帰結を導きかねません。 メリット、デメリット相まってこの構成にはある様子です…。いずれにせよ、①の人体を著作物と同視するないしは類似のものとして扱うところの議論に説得力を持たせられるかどうかが、上述の議論の前提として重要だろう…という感はあります。 従前は、これらの問題を「所有権と処分権」との関係で処理する議論がありましたね。 人体を公共財のごとく扱う議論もあった訳ですが、そこでは人体は特許の問題と類推して議論されることもありました。特許ってのは一定期間を過ぎれば、その研究成果なり何なりをみんなが享有できるようにする制度ですので。こうした議論は「互恵」とか「相互主義」とかで人体資料の取引を位置づける論考にマッチするでしょう。 一方で、著作権形で考えるならば、「互恵」などの双方向性(患者-組織バンク-研究者間の)を重視する議論からは少し外れていくかも知れないですね(この辺りはもうちょっと考えてみないとわかりません)。 まぁ、著作権法に疎い私の考える妄想なので、間違いもあるかもしれませんが…(間違いだらけかも)。もうちょっと詰めて考えてみたいし、この妄言がどのくらい的を得ているかも知りたいので、同じような議論をしている論文を探してみたい気分ですね。休みが明けたら調査するか。。。 |
by vla_marie
| 2006-10-29 00:01
| なるほど
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