粟屋剛『人体部品ビジネス』 |
後述するのですが、今日はとーま氏と昼飯スポットを探索に出かけてきたのです。 昼ご飯を食べながら、医療とか法律とか哲学とか、「なんでこんなに硬い話になるんじゃい!」という内容の会話をしていたわけですが、そんな中で「死体はモノか?」という素朴な質問があったので、とりあえずこの本を紹介しときます。粟屋剛『人体部品ビジネス』(講談社選書メチエ、1999)。 以下は、書評ではなく、宣伝です(笑。 本書は人体が資源化・商品化されている実態について、実地で調査した内容を含んでいる点が極めてユニーク。第1章のクライオライフ社訪問記、第2章および第3章のフィリピンとインドでの臓器売買事情のレポートは、登場人物一人一人の容姿・佇まい・性格なども記述することによって、生々しく面白い内容となっています。 臓器売買はともすれば、「持てる者が持たざる者から搾取している」かのような印象を与えがちですが、少なくとも本書の報告からは必ずしもそうとは言いきれない。ドナーとレシピエントともにwin-winの関係にあるときもままある…ということが伺えます(もちろん、だからといって臓器移植をどんどん推進すべきだという判断にまで及ぶわけではないのですが、少なくとも上述の理由からのみ臓器移植を悪と見ることの妥当性には疑問が呈されるわけです。)。 「人体資源化」・「人体商品化」について触れられているのが5章。「死体はモノか?」という疑問に答えるのはこの章、ということになるでしょうか?もっとも、本章はより広範に「人体はモノか?」という問いに対する論考となっていますが、参考までに以下記します。 まず、人体がモノであるかどうかという問いには種々の側面がありまして、①「物理的観点」、②「医学的観点」、③「社会的観点」そして④「法的観点」からの検討を要するということです。このうち、①、②については「人体=モノ」といわざるを得ないとしても、③の観点からは100%モノであるとは言い切れないということです。では、④の観点、すなわち法的観点からはどうであろうか?というところで、判例・学説の検討が為されています。 法的観点からは、この問題は人体(またはその一部)に所有権が及ぶかどうかという問題として表れてきます。 判例・学説は、人体から切り離された一部(血液だとか毛髪だとか)や遺骨・死体を「モノ」であるとしています。 もっとも、死体の所有権に関しては、祭祀、供養、埋葬などを目的とする管理・処分権としており、所有権があるからといって完全な処分権を認めているわけではありません。 これを手がかりに、以下臓器(とか組織・細胞)に所有権が及ぶかどうかという問題が以下で語られますが、長くなるので一番通説と異なる点を挙げると、粟屋説では生体の人体に所有権を認める点でしょう。 生体や生体の一部に関しては議論がありますが、「現代法は人格を有する「人」に対して排他的支配を認めない」という観点から通常これは否定されています(cf.奴隷)。 しかし、粟屋説では人体への一般的な所有権を認めます。なぜなら、人体の所有権を認めることが即ち他者の身体に所有権を及ぼすことにはならないということです。 以下詳しくは 粟屋研究室のサイトから「「現代的人体所有権」研究序説」ってのを読めばよいかと。>とーま氏 この章は、他にも「人体の商品化がなぜ進むのか?」といったことにも論及しているのですが…、長くなるので割愛します(ぇ。 結構ラディカルな主張が為されていますので、本書の立場に違和感を覚える方も居られるかもしれません。まぁ、そこら辺は、そのくらい影響力のある著作だということで…(ぉ。 コレ、人体資源化・人体商品化について著述した先駆的作品なのに…amazonでは品切れですか。┐(´д`)┌ あ、関係者の方。拙者の読み方に誤りがあったら訂正お願いします。 |
by vla_marie
| 2006-10-20 20:26
| 本
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