iPhoneの充電器と現代思想3月号 |
従兄弟の結婚式で東方に遠征しました。旅に本は必需品。でも、iPhoneの電池残量も気掛かりなもの。 そんなわけで、Dock端子直結型の充電ケーブルを購入しました(BUFFALO)。同様のものは他にも持っていますが(GREENHOUSE)、若干お薦めできない点があります。それは、こいつらはプラグが90度しか回転しないこと。 場所よってはそんなアダプタみたいに場所をとる挿し方ができないときもありますから、買うならこの手の180度回転プラグを強くお薦めします。 さて、現代思想3月号をようやく読んだのですが、小松先生の論考は…結論的には(立場の異なる人も)同意しそうな内容ですね。以下メモ(要約)。 本論考は、まず「脳死=人の死」に関する歴史的展開を叙述する。そこでは、ハーヴァード基準である「有機的統合性論」が、もはや説得力を持たないことを、シューモンの長期脳死の報告(p.182)、ダンロップ・ケース及びラザロ徴候(p.183)等を引き合いに論ずる。こうした批判を受けた「有機的統合性論」につき、近時は「ドライヴ論」により脳死を人の死とすることが試みられている。ドライヴ論とは、「まず、①ドライヴの消失が人の死と定義され、その上で、②ドライヴの表出例を呼吸と意識に限定し、したがって、③呼吸も意識も消失した脳死は、ドライヴを消失しているため人の死である」(p.186)とするものである。しかし、このような見解も、理論上の矛盾につき科学理論の「防御帯」をすげ替えるのみであり、「脳死=死」なる中核の変更ではない。 他方小松は、1990年代以降の日本の医療・福祉政策には、「医療・福祉を縮減する激流があり、その中に脳死が、さらには尊厳死が位置づ」(p.187)いていることが、確認されると言う。「健康増進法」、「障害者自立支援法」や、救急医学会の「救急医療における終末期医療に関する提言」、日本尊厳死協会の動きを睨みつつ、改訂臓器移植法が「脳死=人の死」を見るならば、それは、「日本国家は脳死を人の死とすることに成功(し、)…(中略)…今後、死の認定枠を拡大し、尊厳死法制定に邁進しているように思われる」(p.190)。 小松は、この臓器移植法改訂の思想を、コント=スポンヴィルの論を借用して描くことを試みる。コント=スポンヴィルは癌代社会を支える秩序を、科学技術/経済、法/民主主義、道徳(倫理)の三層構造(上位秩序→下位秩序)で示し、それぞれには関係性がありながら「いずれの秩序も相対的には独立しており、各々の領分をもつ」(p.191)とする。したがって、下位のものを上位のものに還元することは「純粋主義」、上位のものを下位のものに従属させることは「野蛮」であり、また「純粋主義」と「野蛮」が合わさったものは「十字軍症候群」となりいずれも問題がある。臓器移植法改訂には、移植件数が増えないことや、医療・福祉の縮減下という「野蛮」、子供の移植のために「脳死=死」を唱える「純粋主義」があり、「十字軍症候群」に陥っている。 さらに、小松はフーコーの「生権力/生政治」を借用し、「日本国家は、改訂臓器移植法で「脳死=死」とすることによって…(中略)…「生きるに値する者」と「生きるに値しない者」とを二分することに成功した」(p.193)と論じる。 「かくして、現代にあって生権力は、科学技術/経済、法/民主主義、道徳(倫理)、これら各々の領分をもつ秩序を他の秩序に従属させることを通じ、。「脳死=死」と法規定した。」(p.193) このような傾向に、小松は「実質的な優生政策」(p.195)を見る。 このような流れの中で、”人体が自己決定により処分される時代→家族決定により処分される時代(今ココ!)→国家に収益されるようになる時代”…になるんでないのかとのご指摘。これは自分も同じような印象を持っています。アブナイ。 |
by vla_marie
| 2010-04-13 00:08
| 本
|
<< 寄生虫とか | 小児脳死判定、24時間間隔で >> |