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くわぁんりんの日記
by vla_marie
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『ポジティブ・アクションの可能性』

 以前紹介されたので購入。積読になっていたのを消化しました(bk1)。2007年刊。
 この手の問題では、人種や民族、性別等が採り上げられることが古典的なわけですが…サブ・タイトルにもあるように、本書は9割型性別の問題しか論じていません。

 様々な分野の執筆者が自分のフィールドの料理法で論考を寄せていますが、結論的にはポジティブ・アクション(PA)推進・擁護に組するというものが多かったです。

 面白かったのは、第3章の大屋論文、及び第4章の松本論文。



 大屋論文は、本書の中では最もPAに慎重な立場を採ります。
 この論考は、ポジティブ・アクションが「平等を実現するための不平等な手段」としての性質を帯びる以上、平等理論との衝突が理論上あり得るとの想定のもと、ロールズ、ドゥオーキン、センの理論から、PAの限界を探るというものです。
 現代性議論では、「何の平等か」と「何による平等か」が議論の中心であったが、問題の鍵は「なぜ平等か」にある。「他者の資源利用の可能性を強制的に制約してもなお平等なお平等な分配が必要だと主張されるのはなぜなのか。」(p.76)
 センは、①ほとんどの政治理論が平等の必要性について同意していること、②一見そうではないように見える理論も平等主義として解釈できることを理由に、理論的な考察を避けている。
 ここでは、センは「すべての人」に対する潜在能力の平等を主張するのであろうが、そのとき、センは個々個別の「人」が置かれた状況が異なっていることを主張する。「だがでは、それらはなぜ、なお同じ人であると言えるのだろうか」(p.77)。
 「不平等があると言うためには、その不平等な人々の範囲が決定されていなければならないはずである。」(p.77)

 この点、ドゥオーキンは、我々は「平等な取扱い」ではなく「平等な者としての取扱い」を追求すべきと説く。ドゥオーキンは、ロールズ正義論の深層にある理念を「平等な配慮と尊重への権利」と呼び、これをドゥオーキン自身の理論の基礎としている。

 「自らの善の構想を自由に選択し、自分の人生を送ることができるという点でで、我々と等しい地位を全ての人々に与えること、そのような存在として他者を遇することが、平等という価値の意味であり目的なのだ。我々が平等を必要とするのは、現実には全ての属性においてさまざまに異なっており「等しい」存在などないにもかかわらず、社会の参加者全てを等しいと取扱い、等しい者であると考えるためである。平等とは等しい結果を与えるためのものではなく、等しく尊重される主体を生み出すためのものなのだ。…(中略)…ドゥオーキンが結果の平等ではなく手段の平等を唱える背景には」、保障された地位を自ら捨てることも尊重しなければならないといった、個々人の善の構想に対する介入を避け、個人の自主性と自律性を尊重するならば、我々にはあきらめなくてはならないことがあるという考慮がある」。(p.78:斜体部分は、本文中では上に点。)


 結論的は、この論考の立場は、機会の平等を保障するためのPAは肯定できるが、しかし、結果の平等を是正することは否定されると。ただし、ドゥオーキンが学生身分・アカデミック・ポストへのPAに肯定的であるのに対し、大屋先生は否定的です。

 もう一方の松本論文は、フランスと日本の歴史文化の違いからPAを語るもの。
 例えば、西洋の二項対立と違い日本の陰陽思想には優越関係がないし、立場の逆転現象が前提されていること(p.89以下)、また、神話に登場する鬼女が、イザナミのごとき産土神として祀られるなど、異物を排他しない文化があったこと(p.92)が指摘されています。
 つまり、日本は西洋に比べればもとよりジェンダー・フリーな文化があったと。

 で、結論的には、男女共同参画は陰陽道よろしく、各自が自ら決定してできれば良いということなのですが…、それを追求可能とするための活動論にも意義があるというお話しになっております。

 うーん。どうなんだろ。
 例えば、持参金の有無とか血液型を採用の合否に使うことが不適切であるように、性別も基本的には考慮に入れないってのが平等に繋がるのか。むしろ、性別を考慮に入れまくった方が良いのか。
 まあ、普通に応用倫理学の教科書とかで出てくる話なんですが。
by vla_marie | 2010-03-29 23:48 |
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