『脳死』 |
1991年刊なので、臓器移植法制定前の文献(bk1)。橳島先生が博論を基に纏められたもの。 古書店で偶然入手できました。 本書は、先端医療の受容につき、日本には社会的要因があるとする仮説を、統計やフィールド調査を駆使して論駁しています。 死と葬送を巡る儀礼が時間的にも空間的にも張り巡らされ関係性の人格を重視する日本社会と、アトミックで自律的な個人の人格主体を想定するアメリカ社会。以前からこの相違が指摘されてきたものの、葬送や献体を巡る社会学的調査によって、日米の間の死生観や身体観の違いは指摘される程大きなものではないことを筆者は論じます。 代わりに、重要な問題点として筆者が掲げるのが医療体制や社会制度など、先端医療を支えるシステムの相違(日本の不備)です。具体的には、コ・メディカルやソーシャルワーカーの充実とか、医療保険制度の違いが紹介されています。 「コ・メディカルは、医師とは異なる専門的観点を現場にもたらし、多様な角度からの情報や意見を提供して患者・家族の相談相手になれる存在である。日常医療の中にそうした存在がいることで、脳死による死の判定を受け入れる人にも受け入れない人にも共通の、精神的・人間関係的苦悩や社社会経済的困難がケアされる体制ができる。そのような支援体制があってはじめて、治療中止や臓器提供の可否などの意思決定を、患者・家族の自己決定に委ねられるようになるのである。同じことは移植を受ける側にもいえる。」(p.180) 筆者がとりわけ問題としているのは、医療現場での医師の支配性、体制上の不備に基づく医療不信であり、その解決には情報開示を要するという立場のようです。 ちなみに筆者は、臓器移植には慎重な姿勢です。 興味深かったのは、「愛他主義」に関する記述で、筆者は日本に愛他主義が無いわけではなく、愛他主義の発揮される場が違うのだという主張をします。他者が可視的なところで発揮される愛他主義というのが日本を含めて一般的であるのに対し、アメリカ社会では自己完結的な愛他主義(自己-神との関係において完結するプロテスタント的なもの)が特徴的であると。 ただし、プロテスタンティズムと愛他主義の関係については、統計学的データを用いて論証しているわけではなかったです。 今日でも、日本には愛他主義が無いので臓器提供が増えないという言説はありますが、筆者にとってみれば、愛他主義の質が違うのであるから単純に比較できないことになるのでしょうね。 |
by vla_marie
| 2009-04-07 22:44
| 本
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